石鏡漁港1(三重県鳥羽市) F4
鳥羽石鏡岬の石鏡漁港です。岬の灯台に隣接するホテルいじか荘から歩いて数分、朝食前に海岸に下りてみました。この日は前日の悪天候から一転して穏やかな晴天に恵まれ、港内に残る漁船は僅かでした。山腹に建上がるのは新旧混在の家々ですが、さながら地中海の小さな港町のようです。東伊豆稲取港もエキゾチックな景観ですが、石鏡の東斜面に並ぶ家並みは何時見ても良いなと思います。石鏡は今も海女漁が盛んです。この近くにも小さな海女小屋が建並びますが、廃屋同然になった小屋もあります。廃業する海女さんが多いのかも知れません。
石鏡漁港2 F4
石鏡漁港と後背の家並みを南側の道路から見た眺めです。遠景は鳥羽湾の菅島です。石鏡は難読地名の一つで「いじか」と読みます。鳥羽藩の事情を記した志陽略誌(1713)によると、「村の前の海に石鏡があり村名となった」とのこと。今は鏡石の存在は不明です。なお石鏡から伊良湖水道を望む絶景を利用して、石鏡港がゴジラの日本への上陸地として映画第一作のロケ地になったそうです。後年(1996)、近くの安楽島半島で恐竜ティタノサウルスの化石が発掘されたことも因縁めいて興味深い出来事です。遥か神島や伊良湖水道を望む雄大な鳥羽の海は、行き交う船も多く、一日中眺めていても見飽きない景色でした。
石鏡漁港3 F4
鳥羽石鏡漁港の一景です。港北の高台にある公民館前庭からみた港口の突堤と石鏡岬の眺めです。山上に見えるのは宿泊したホテル「いじか荘」です。ホテルに隣接して石鏡灯台がありますが、このアングルからは建物の陰になり灯台の先端しか見えません。この絵の前方の山裾に微かに見えるのは数棟の小さな海女小屋です。大王崎波切漁港に行ったときも次々に港を出てゆく海女船を見かけましたが、今も鳥羽・志摩は海女漁のメッカだそうです。日本全国の海女さんの約半数(900人)がここ伊勢・志摩地方に現存するそうです。
答志漁港1(三重県鳥羽市) F4
鳥羽湾と伊良湖崎の間には離島が幾つかありますが、その中で最も人口の多い答志島の答志漁港です。鳥羽港から連絡船が出ています。答志漁港へ直接渡ることも出来ますが、この日は途中寄港した和具港で下船し、和具港を散策した後、答志港まで歩いて来ました。歩いて20分ほどでしょうか。今はわかめなどの収穫期なのか、水揚げされた海草を大釜で煮たり加工する人たちで、港の周りは大変活気がありました。
答志漁港2 F4
答志漁港は隣り合う三つの港からなり、連絡船が着く真ん中の港にあった小さな造船所です。ドックに揚がっている漁船はこれから船底の防腐塗料を塗り替えるのでしょうか。レールの周りはこぼれた塗料で赤く染まっていました。
本浦 F4
生浦湾(あおのうらわん)に架かる麻生の浦(あおのうら)大橋の東詰めから見た湾内の牡蠣養殖場の風景です。穏やかな海面には数え切れないほどの牡蠣の養殖筏が浮かんでいます。中には釣り用の筏も混じっているそうですが、狙いはクロダイ(チヌ)でしょうか?クロダイは硬い貝も噛み砕くほどの鋭い歯を持つ魚ですから、釣り用筏は牡蠣をクロダイから守るため?
麻生の浦大橋 F4
鳥羽から志摩への海岸線を結ぶパールロードの起点、麻生の浦(あおのうら)大橋です。ウイキペディアによると、形式はバスケットハンドル型ニールセンローゼ橋というそうです。昭和28年(1973)千葉県市川市で製作し、この形のまま船で運び、潮の干満を利用して架設したそうです。橋桁のないスマートな構造が優美で周りの景観と良く調和しています。このあたりはリアス式海岸を利用した真珠の養殖場でしたが、今は牡蠣の養殖場に変わっています。パールロードが出来るまでは、今浦(この絵の正面入江の漁港)、本浦(この絵の後方の漁港)、石鏡(同)は陸の孤島で、鳥羽からの市営連絡船が唯一の公共交通手段だったそうです。今は路線バスの便もあり、牡蠣の美味しいシーズンになると観光客で道路が渋滞することもあるとか。
今浦 F4
生浦湾(あおのうらわん)の最奥に位置する今浦の船溜りです。鳥羽市浦村町の本浦・今浦は三重県全体のかき生産高の2/3を占めると言われる浦村がきの生産地です。シーズンには焼がき食べ放題などのイベントもあり、大勢の観光客で賑わうそうです。画像は上の「麻生の浦大橋」の西詰めです。
安楽島漁港 F4
鳥羽市街に近い安楽島(あらしま)半島の南に位置する安楽島漁港です。リアス式海岸を利用した天然の良港です。安楽死を連想してしまう地名ですが、その由来は定かではありません。地形的に菅島、坂手島と非常に近い関係から半島なのに島になったのかも知れません。バスの車窓から入江最奥の船溜りが見えたので、下車しましたがかなり奥深い大きな港でした。なお、大型草食恐竜ティタノサウルスの化石がアマチュア研究家によって発見されたのは安楽島漁港の1.5kmほど南の海岸です。